teratotera

「人と人、街と街とをアートでつなぐ」 中央線沿線地域で展開するアートプロジェクト

TERATOTERA 祭り2019 ~選択の不自由~ ART

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青木真莉子 《○・○・の・い・う・と・お・り》
青木真莉子の『○・○・の・い・う・と・お・り』は、旧製麺所で現在は倉庫として使われている木造建築の2階で展示された。幅の狭い階段を昇っていくと、細長い廊下に出る。廊下にはガラガラ(抽選器)や、文字が書かれたピンポン玉が入ったカラフルな袋などが設置してある。足を踏み入れた瞬間は「?」という印象かもしれない。さらに進むと小ぶりな部屋があり、部屋のキャパシティとは不釣り合いなほど大量の作品が設置されている。ここにも、紐を引いて札を選ぶタイプのくじ引き道具がある。「?」がますます大きくなりそうだ。
この展示には約束事があり、来場者は常駐のスタッフから次のような説明を受ける。
「この展示空間にあるすべての作品は、青木が制作するうえで展覧会全体のテーマである『選択の不自由』を実行するため、くじ引きによってランダムに選ばれた素材、制作手法などを元に作られています」来場者はそのうえで展示を鑑賞し、その後、スタッフの誘導でくじ引きをする。くじ引きは5種類あり、それぞれが作品内容やメディア、色彩などを決定する。くじ引きの結果は、例えば「①カバを②ニンジンと③飛ばす④映像で⑤白色」といった具合。この結果をスタッフと一緒に読み上げ、それに続けて作家本人(不在の場合は別のスタッフ)が「を、作ります!」と宣言する。青木はくじ引きの結果に従って制作し、作品を展示空間に随時足していく、というのが展示の約束事だ。
来場者の多くはくじ引きを笑顔で楽しんでいたから、『○・○・の・い・う・と・お・り』は会場を明るいコミュニケーションの場としても機能させていた。とはいえ、その雰囲気とは裏腹に、この展示では作家の「作る」熱量は尋常ではない。来場者の数だけ制作する作品数は増え続けるからだ。実は、青木は展覧会が終了した後もくじ引きの結果の内容に沿って作品を作り続けている。(山縣俊介)

 

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うしお 《 不如意のティーサロン 》
「不如意」とは、思い通りにならないこと。また、経済状態が苦しくて、やり繰りがつかないことをいう。切ないことこのうえない。これが不自由という言葉だったらその状態に抗う意思も感じられるが、「如意」が仏教用語だからか、「不如意」には諦めの影が色濃く落ちる。
うしおの『不如意のティーサロン』では、客は茶の名前が書かれたカードを引き、望んだわけではない組み合わせでミックスされた茶を飲む。
用意したのは17種類。緑茶、紅茶、ウーロン茶などおなじみの茶もあるが、ごぼう茶、しそ茶、ゴーヤー茶、びわ茶なども交じる。すぎな茶、はぶ茶にいたっては風味の見当もつきかねる。癖が強い茶もあるなか、サーブされたミックスティーは意外にも、どの取り合わせでもおいしい。思い通りにならない事態に宿るささやかな幸せ。茶飲み話しに花が咲いた。
無料で茶が飲めて談話を楽しめるスペースの隣には、書籍が約250冊。これは美術評論家・小倉正史さんの蔵書のごく一部。「栗鼠(りす)文庫」と名付けられた蔵書と、半世紀以上にわたる美術批評を記録した膨大な量の写真を整理して、アーカイブ化する作業を公開した。会場では、うしおが小倉さんに話を聞き、美術史に埋もれた体験をひきだす。近年、世界的に評価が高まっている画家・白髪一雄による、フランス・マルセイユでの公開制作を取材した写真をスライド上映したときには、「描き始める前に白髪がいつも念仏を唱えていた」と小倉さんは記憶を手繰った。これには居合わせた一同がホオと感心。
こうした証言や、本にはさまっているチラシや紙片も記録する。図書は市販されたものが多いので、散逸してもどこかで参照できる。大切なのは資料に紐づけられた個別の情報なのだそうだ。情報はクラウドにあげ、のちのちは公開して広く共有できるようにする計画である。記録される本人にとっては不如意そのものの壮大な事業だ。美術に限ってではあるが、一人の人間の半生にわたる記憶や経験をまるごと収蔵して未来へ渡すような試みである。(岩尾庄一郎)

 

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うらあやか 《 バナナ・ミーツ・ステーション 》
バナナには種がなく、株分けによって栽培されるため、すべてのバナナは同じDNAを持つという。そのバナナを身体に取り込んでいくこと、つまり食べることで「自身はバナナ化した身体になり、同じDNAを取り込むことで、皆『同じ』になる」とうらは考えます。バナナはまた、アンディ・ウォーホルがモチーフとしたように、さまざまなアートシーンで象徴的な役割を担ってきました。そのバナナを取り込むことは、「アートが身体を獲得することにつながる」(うら)。そこから着想したのは、街頭で参加者がともにバナナを食べる、というパフォーマンスでした。三鷹駅南口デッキの、絶え間なく行き交う人の流れを挟んで、ゆっくりバナナを食べながら互いを見つめ合う。あるいは、上下のエスカレーターに乗って、すれ違ったところでバナナを掲げて会釈をする。うらに導かれて、参加者は日常ではありえない行為を遂行します。雑踏の中で、そこにだけ他とは異なる「空気」の層ができ、奇妙な一体感あるいは同質感が参加者の身体を包んでいきました。(皆川智宏)

 

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遠藤薫 《 ちゃんと空気を読んで、催眠術にかかったりしたい 》
人はいつ、どの国や地域、どのような家庭や環境に生まれるかを選ぶことはできません。でも、生まれ落ちた環境によってさまざまな影響を受けながら育っていきます。その過程で刷り込まれた固定観念は、しばしば私たちの行動や態度を規定します。
遠藤薫は、近年、ニュースで頻繁に取り上げられる嫌韓意識の高まりや差別感情の背後に、そうした固定観念があると考えます。それは、催眠術にかかって何かを選択させられている状態に近い。そうであるならば、日常生活で「空気を読む」技術としての「催眠術」は逆に、他者の立場を想像する技術にもなりうると仮定し、制作に臨みました。
作品は映像とテキストを中心とするインスタレーションになりました。複数の映像には、最も身近な家族と親友が食卓を囲み会話をする様子や、想像上の生物である龍を幼い息子と作る場面、催眠術をかけられる実験を行う遠藤自身などが登場します。
大阪のコリアタウンに隣接する地域に生まれ育った遠藤にとって、在日コリアンの存在は原体験の一つであり、本展示の動機ともなっています。日本人と在日コリアンの間にある複雑な感情を理解するために、日本と朝鮮半島の関係史を調べ、周囲の知人から助言を受けた様子がテキストとして展示されました。
個人的な記録に基づく作品であるため、制作にあたり逡巡したことは想像に難くありません。それでも遠藤は、いわば変化球的なアプローチで社会的な問題を可視化し、問題提起することに挑みました。(林真実)

 

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岡田裕子 《 ナニカヲイワウ 》
通勤や通学の人が行き交う三鷹駅の北口前広場。そこに、突如として「祝典会場」が現れた。会場には紅白の幔幕がめぐらされ、祭礼の寄進者名を掲示するような半紙が風に翻る。傍らの棚には、白木の枡に黄金色の品を納めた記念品らしきものも見える。いかにも祝賀気分が漂う設しつらえの会場で、黒羽織をまとった現代美術家・岡田裕子が披露したのが『ナニカヲイワウ』というパフォーマンス。3日間で、公募に応じた42人が参加した。
参加者はまず「祝ってほしい」内容を半紙に書き、その半紙を会場に掲げる。その内容を見ると、「うつ病 無職 三年目」「加齢臭」「曲がったまま育ってしまった小指」……。どちらかといえばネガティブな話題で、普通は祝いの対象とならないことばかり。参加者は岡田の公開インタビューを受けて、祝ってほしい理由を明かす。岡田が、その理由を読み上げた後に「イワイジョウ」と「イワイノシナ」を贈呈する、という流れで祝典は進む。「母親を看取ったこと」と半紙に記した参加者を「イワウ」際には、岡田が涙ぐむ場面もあった。
ちなみに、「イワイノシナ」は、岡田が作品などを保管していたアトリエが、2019年10月の台風で倒壊した現場から回収した破片を使用している。被災という不運を経た作品のかけらを、黄金色に着色することで、災厄を生き延びた証の「イワイノシナ」とする。そこに、祝賀の対象はいわゆる慶事には限られないのではないか、という岡田の問いかけがある。私たちはもっと自由に「イワウ」ことができる。(栗原瞳)

 

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Henry Tan( ヘンリー・タン)《 Young Eel 》
部屋にあふれる、なじみのない音と匂い、珍妙な魚の映像――。ヘンリー・タンの展示空間は、何ものも想起させない事物と読み取れない記号であふれている。まるで、誰か知らない人の夢の中にいるように。展示タイトルは『Young Eel(幼いウナギ)』。入口で手渡される紙にはこんな詩が書かれている。“Unagipopulation is declining(, ウナギ人口は減少している、)”。
人間社会では、人口が減少し、出生率の向上や労働の機械化、新たな労働力の獲得が求められている。一方、漁獲量が減るウナギについても、自然界でのウナギの再生産を促進する方法や、天然のウナギ資源を代替する技術を開発する努力がなされている。
タンは、ウナギの代替として、ウナギの細胞から肉を人工培養することを提案する。今回のパフォーマンスは、生き物としての経歴を欠くその肉に、人間の幼い日の記憶を付加しようとする突拍子もない「実験」だ。部屋の一角で眠る協力者の、幼少期の記憶にまつわる匂いや音で空間を充たし、眠っている間の脳波を計測して音楽に変換し、幼少期の記憶にまつわる食材とともにウナギを調理する。そして、奇妙なウナギ料理ができあがる……。
タンが今回、人工ウナギ肉に宿そうとする幼少期の記憶は、人間が社会からの要請や圧力を気にすることなく生きていたときの記憶だ。私たちはときに、自分を取り巻く社会の現実から逃れ、自らの幼少期を懐かしむ。幼少期のウナギは、透明で、葉っぱのような形をしているが、遊泳力が弱く、自分で餌を探さないらしい。人間は、そんな脆弱な幼いウナギを安定的に、食用となる大人のウナギまで育てる方法も研究している。大人のウナギも、人間に食べられる運命を知ったら、いつまでも幼少期のままでいたかったと回想するかもしれない。
できあがった料理を、タンは観客とシェアしようとする。タンが笑顔で差し出すいかにもまずそうな見た目の料理を、ある人はとまどいながらも口に運び、ある人は苦笑いして退ける。料理が完食され、実験のすべての工程が終了すると、タンは「記憶を皆で共有した」と総括する。
人工ウナギ肉は、はたしてほんとうに幼少期の記憶を宿したのだろうか。見ず知らずの誰かの幼少期を、その味から想起できたのか。実験の成否は、タンに誘われて料理を口にした観客の想像力に委ねられる。(上田和輝)

 

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李晶玉×鄭梨愛 《 近視/遠視 》
遠くに目をやれば近景はぼやけ、近くを見つめれば遠景は退いてゆく。李晶玉と鄭梨愛の合作は、遠近を同時に明視できない、私たちの視覚の在り方を思わせる。ギャラリーのような四角い空間には、薄布が天井から吊るされ、壁面には絵画作品が並ぶ。布の間をめぐりながら、絵画を見ると布に転写された写真と文字は霞み、布に目を凝らせば絵画作品はうっすらとした背景と化す。作品タイトルは『近視/遠視』。 
鄭梨愛は「ナラティブ(物語)」をキーワードに制作した。日本統治下の朝鮮半島から日本に渡った鄭の祖父が、生前、初めて故郷の全羅南道を訪ねた際に撮った風景写真と、祖父の個人的な歴史を織り交ぜた散文が、薄布に転写されている。歴史の中でいつしか抵抗歌になっていった朝鮮の古い童謡も、写真にそえられている。
李晶玉の作品は、世界の古典的な絵画や国家などをテーマにした絵画。写実的に描かれた空の色が印象に残る。一見すると二人の視点は交わっていないように感じられる。だが展示空間に佇んでいると、肉親の記憶という個人的なモチーフと歴史を擦り合わせた鄭の目線と、世界的に知られる建造物などのモチーフを使い、「構造体」としての世界の中に生きる自身を見つめる李の目線はだんだんと重なり、その境目は曖昧になってくる。散文の中には実話だけでなくフィクションも含まれていると鄭は言うが、その虚実を見極めるのもかなり困難だ。
人は自分の目で見たものしか信じたがらない。だから目の前にあるものを真実だと思いこむ。でも、はたして今自分が見ているものはすべて真実なのだろうか。自分の選択は正しい風景を見せてくれているのか。二人の作品がそれを問うてくる。(裴潤心)

開催概要

日程: 令和元年11月8日(金)、9日(土)、10日(日)11:00〜18:00
会場: JR三鷹駅周辺
参加アーティスト:青木真莉子、うしお、うらあやか、遠藤薫、岡田裕子、ヘンリー・タン、李晶玉×鄭梨愛

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