teratotera

「人と人、街と街とをアートでつなぐ」 中央線沿線地域で展開するアートプロジェクト

TERATOTERA祭り2018 Walls −わたしたちを隔てるもの−
ART

展示

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キュンチョメ 《完璧なドーナツをつくる》
アメリカのドーナツは円形で穴が空いている。沖縄の揚げ菓子サーターアンダギーは小さなボール状。「米軍基地のフェンス越しに、この二つを合わせて完璧なドーナツをつくりたいんですけど、どう思いますか?」
映像作品「完璧なドーナツをつくる」は、そんな問いかけを沖縄の人々に投げかける。制作したのはホンマエリとナブチのユニット「キュンチョメ」。沖縄でさまざまな人々にインタビューした記録映像を中心に構成する。
面白そうだけど、バカバカしくもあり、どこか意味深長。そんな問いかけに、「うん、いいんじゃない」と即応する人もいれば、「それは…あれねぇ…どういう意味ねぇ…?」と戸惑う人も。
約90分の映像に10人のインタビューを収める。米軍のヘリパッド建設に反対する人から、基地関連工事を請け負う建設会社の経営者、米兵相手のバーの店主、“アメリカ&沖縄ミックス”のお笑い芸人まで。年代も立場も異なる人々が、ときに笑いを誘うやりとりを交えつつ、ことばを探して迷い、考え込んで言いよどみ、怒りを抑えるかのように押し黙る。その沈黙の間から、沖縄の人々が直面するリアルな状況が浮かび上がる。
会場では「完璧なドーナツをつくること」への賛否を問う投票も行われた。選択肢は「賛成」と「反対」のみ。投票用紙を手に、〈穴のないドーナツって、そもそもドーナツなのか?〉という定義への疑問や、〈ドーナツがアメリカで、サーターアンダギーが沖縄。なら日本本土は桜餅か?〉という表象レベルの愚問まで、雑念が次々と湧き上がり、脳内はとめどない混乱状態に。
「完璧なドーナツ」はどこまでも転がっていく。(西岡一正)

 

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小林清乃 《インタビューセッションセラピー・プラクティス「交わるとき、あなたの語ることの声」》
初めて小林清乃の作品を知ったのは2017年秋に中之条ビエンナーレで鑑賞した「Polyphony 1945」である。繊細さと力強さが同居する印象を受けた。
それから1年後、TERATOTERA祭りのコンセプトが決まったとき、私は招聘作家として小林を提案した。今回のTERATOTERA祭りのコンセプトは「Walls −わたしたちを隔てるもの−」だ。小林の作品と壁がどう紐づくか、そのときは明確ではなかったが今後、何かになるかもしれないと直感が働いたのだ。
今回の作品はインタビューセッションセラピーのワークショップを事前に行い、会期中、元製麺所だった会場でサウンドインスタレーションとして展示した。
ワークショップでは、小林が設えた空間に小林と参加者が一対一となり作品で使用する音声音源を収録した。具体的には、「人は必ず死ぬもの」という共通点をお互い共有しながら、小林が用意した28項目の質問に参加者のペースで答えてもらった。質問は夢の話や死者との遭遇体験、自らの死後について。軽々乗り越えられる壁(質問)もあれば簡単には乗り越えられない壁(質問)もある。
サウンドインスタレーションの展示では、向かい合った2脚の椅子の片方に設置したスピーカーからワークショップで収録した参加者の音声が流れる。椅子のセットは7組だった。
スピーカーから流れる各音声は無機質ではない。小林が語りの具体性を保ちつつも抽象的な印象になるよう編集。声の主の気配がダイレクトに伝わる。椅子に座ると対面したスピーカーからソロパートのように音声が響き、立ち上がり椅子から離れると各椅子から流れる音声が全体的に多声様式のように響く。
会場に足を踏み入れた鑑賞者たちは、旋律のように流れる音声に耳を傾けながら、小林が設えた会場を回遊するのである。 (山上祐介)

 

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地主麻衣子 《欲望の音》
生まれたての音と映像を、生まれる過程含めそのまま体験する。これはそんな作品だ。以上終わり。本当はそれでいい。作品に記録された、欲望に関する対話と演奏は充分エキサイティングなのだから。だが一方、構成が簡潔なので、作品のあちこちにある余白に思い巡らすこともできる。以下はあくまでひとつの見方。
この映像作品の鑑賞者は、終始三つに分割された横長の画面を見る。まず一番右。地主麻衣子が、三脚に据えたムービーカメラを、ドラムセットに座ったパーカッショニストに向ける全景を収めた、いわゆるマスターショット。背景には地主が撮る映像をリアルタイムで映すスクリーン。次に中央が、スクリーン内の映像と同じく、パーカッショニストを正面から捉えたショット。最後に左側が、ドラムの打面を映した固定ショット。編集なし。3面それぞれが69分間に起きたことを、捉えた範囲でありのままに伝える。
欲望に関する地主の問いかけに、パーカッショニストが答え、やりとりから湧き起こるイメージを即興演奏するという展開が繰り返される。問いは、身近な性的欲望から、極限の禁欲といえる即身仏についてまで。対話の内容も特に事前に打ち合わせたわけではなく即興だそうだ。
こうしたパフォーマンス後半の演奏中、ドラムセットのシンバルが倒れてしまう。しかし、地主もスタッフも誰ひとりシンバルを起こそうとしない。残された時間の演奏を乗り切れるのか。編集がないので、その場にいる客のようにハラハラしながら事の推移を見守る。やがてパーカッショニストは演奏を途切れさせずにシンバルを立て直すことに成功。しかしこの距離感は何なのか。
地主とパーカッショニストの間には、ただ空間が、空気があるだけなのだが、そこに実は見えない仕切りがあるのではないか、と想像してみる。すると今回のTERATOTERA祭りのテーマであるWalls=壁に似た、しかしそう固くもない、膜状のものが何層も立ち上がってくる。
会場のスクリーン。ドラムの打面を覆う皮。空気の震え。画や音を伝えるのに必要不可欠な物質は、また同時に人を分かちもする。付かず離れず、踏み込みすぎず付け入らせず。そういう距離感が醸す人と人の関係を見る、空気を見る1時間超なのかもしれない。 (岩尾庄一郎)

 

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高田冬彦 《Dream Catcher》
真っ白な壁に映し出される、一人の少女。窓から身を乗り出すように外を見ている彼女の姿は、グリム童話「ラプンツェル」を思い出させる。
童話のラプンツェルは、生まれて間もなく魔女の住む高い塔に閉じ込められた。外の世界と繋がるのは、魔女が梯子として使う長い髪と歌声だけ。やがて成長したラプンツェルは毎日窓辺に立ち、いつの日かこの場所から救い出されることを願って歌う。
♫いつか王子様が私を見つけだし、お城に連れて行く……
歌は繰り返され、思いは募る。でも塔からは出られない。そして、髪は果てしなく伸びていく――。
グリム童話を下敷きにした映像作品『Dream Catcher』で、少女を演じるのは俳優・美術家の遠藤麻衣。部屋から見える緑の丘や町並みは、高田が丁寧に手作りしたミニチュア。可愛らしいメルヘンのような風景を背景に、少女は憑かれたように歌い続ける。そのギャップのなかで物語は進む。
王子を求める気持ちは抑えきれない欲望となり、自らの髪を窓から垂らし王子を釣り上げるという奇策へと少女を衝き動かす。一点を見据える視線の危うさは、この物語が彼女の願うような結末にはならないことを予感させる。
歌いながら舞踏会のようにぐるぐると踊る少女は、釣り糸と化した自らの髪でがんじがらめになっていく。手に入れたかった幸せは見つからないまま。少女の体が巻き取る髪は同時に、そのうねりで緑の丘や町並みを大地震のように破壊していく――。
女の子にとって王子様との結婚は人生のお約束なのか。世界から隔絶した場所にいる者の抑圧された本能は、高い壁を軽々と越え、ときに身を亡ぼすほどに暴走してしまう。
エンディング。白い雲がふんわり浮かぶ空の下、破壊されつくした世界の光景に、抑圧された欲望の勝利を感じ、思わず自分の髪に手をやった。(前川順子)

 

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Tuan Mami 《In A Breath-Nothing Stands Still, Chapter4》
『In A Breath-Nothing Stands Still, Chapter4』はベトナム出身のアーティスト Tuan Mami によるインスタレーション作品。鉱物資源の過剰な採掘によって環境破壊が進む、両親の故郷(ベトナム北部の鉱山地域ハナム)を題材としている。長年にわたるフィールドワークをもとに制作された。
会場は武蔵野芸能劇場の小ホール。薄暗い室内に、どこか不穏でミステリアスな BGM が響く。
左右の壁には、二つの映像が投映されている。いずれもハナムで撮影されたもの。一つは、山岳地帯の風景とそのなかで生を営む人々の姿を追う。幻想的で内省的な映像が観るものを思索へと誘う。もう一つは、殺伐とした採掘場周辺を少年が彷徨するドキュメンタリー風の映像。マフィアが利権を争う採掘場は危険が伴うので、親類の少年の撮影を装ったという。
少し奥の壁には、鉱物の採掘場をはるか上空から撮影した写真が不規則な配置で貼られている。ホールの中央には、現地で見かけるような簡素なテントが設営され、その下に置かれたモニターには、鉱山の発破シーンの動画が繰り返し再生される。
故郷を彷彿させる映像や写真が断片のようにちりばめられた、異空間。暗がりの中に出現したその場所には、開発の影響で変容する自然の姿や人々の暮らしが、さまざまな表現方法と視点で描き出された。
映像に映し出される故郷の風景は一見すると、霧がかかって、神秘的。しかし霧の正体は採掘の過程で発生した粉塵で、現地の住民たちの健康を脅かしている。抽象的な模様のように見える空撮写真は、目を凝らせば、大規模な採掘で様変わりしていく地形を捉えている。ものごとの見え方は、距離や角度あるいは立場でいかようにも変わってくる。
作品が投げかけてくる問いに、何を感じ、どんな答えを出すのか。それは鑑賞者である私たちに委ねられている。(国広綾子)

 

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林千歩 《わたしの頭の中はあなたに支配されている》
林千歩が初めてのライブペインティングに挑んだ。
今までは映像系の作品を多く観ていたので、事前に「ライブペインティングをする」と聞いた時は、どんな作品になるのか想像すらできなかった。
だが、できあがった作品は「林千歩」以外のなにものでもなかった。映像と同じようにカオティックでグロテスク、そしてどこか考えさせられる作品体験……。
ライブペインティングの会場は三鷹駅前の広場。といっても、林自らが描くわけではない。白い大きなキャンバスの前に集まった小さい「脳」たちが、林の指令を受け取って絵筆をふるうのだ。テーマは「体内」。脳、肺、眼球、腸、子宮といった臓器がキャンバスに現れ、観客や通行人の目を否応なく惹きつける。
だが、それぞれの「脳」が持つ筆は、いくつにも分かれた枝や長い棒、金属のパイプホースなど。どれも扱いづらく、絵を描くには不合理で不釣り合い。もちろん線はブレ、絵具ははみでて、「上手く」は描けない。
でも、それがいいと林は言う。子供のころのような線、ぎこちない線がかっこいい、と。小さい「脳」たちによる、バラバラの、つたない線。その集合が一つの大きな絵になっていく。
3日間のライブペインティングが終わって、残った絵はグロテスクなものだったかもしれない。少なくとも「美しく」はない。でも、どこかユーモラスでもある。それでいい。不自由、不合理な状況で、一つ一つの線はズレて、ブレて、つたない。それでも絵は描ける。
描きづらく、生きづらく。それでも絵は描ける。そんなことを想った。(立山周一郎)

 

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本間メイ
《Buku harianku tetapi bukan ingatanku -My diary but not my memories-》

本間メイは東京とインドネシアのバンドンを拠点とする。自分が暮らすバンドンの歴史を調べていて、日本占領期のインドネシア各地にはオランダ民間人収容所があり、バンドン市内にあるチハピット市場の目の前にも収容所が存在していたことを知った。
インドネシアはかつてオランダの統治下にあり、第二次世界大戦中は日本に占領されていたという歴史をもつ。その歴史への探索の記録を映像インスタレーションとして構成した。
正面の壁に投映される映像では、前半はかつて収容所のあった地域をめぐるが、その痕跡は判然としない。後半は市場で働く老女が日本占領期、またインドネシア独立戦争期を体験した半生と思い出を語る。本間がインタビューをしなければ埋もれたままの記憶だっただろう。
本間の探索とその結果としての展示は多層的だ。日本占領期に収容されていたオランダ人の日記などの記録を読み込み、その分厚いテキストの束を展示する。会場全体は照明を落としてあるが、そこだけライトに照らされていて、観客は手に取って読むことを促される。
会場に設置された小型TVモニターは順次、赤、白、青と色が変わっていく。この3色はオランダ国旗の色であり、青を除くとインドネシアの国旗の色になる。そこに日記から引用されたインドネシア人の下男の言葉がかぶさる。日本占領期になって掲げることが許されたインドネシアの国旗を見て、主人に訴える。「この旗は完全じゃないですよ、ご主人。青色がないですよ!」――。オランダ統治下に生き、インドネシア人でありながらオランダ国旗しか知らない下男。その真率な叫びが、観客を困惑させ、言葉にしがたい自問に導く。
目が見えて言葉を話せても、関心を持たなければ見えないということ。自分が知らないことに関心を持ち、誰かの記憶を自分の中に置いてみること。そうした想像力を持てれば隔たりを縮めることが可能かもしれない、とほのかな希望を感じた。(林真実)

 

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maadm《Can you stop?》
maadmは「どうしたら人が他者への攻撃の手を緩めることができるのかを試したい」という動機から、パフォーマンス・インスタレーションを展開した。土台にしたのは、閉鎖的な状況下で権威に服従する人間の心理を分析した「ミルグラム実験」。ナチスの戦犯たちが残虐な行為をなしえた理由を検証するために、1960年代にアメリカで行われた実験だ。
実験の「被験者」役は観客から募った参加者、maadm自らが「対象」役となり、テラッコが「研究者」役を務めた。参加者は本来の実験では使用されなかった電流をテラッコの指示によりmaadmに通電する。参加者の頭には脳波測定機が装着され、その脳波の変化はリアルタイムで記録されていくのだが、脳波が憂鬱・悲しい・動揺といった感情に傾くまで実験を止めることはできないというルールが課された。
0ボルトから190ボルトまで設定された電流は段階的に強くなっていき、maadmは次第に苦痛の表情を浮かべるようになる。
その過程で参加者は実にさまざまな反応を示した。すぐに実験が終了してしまう者、外見上は動揺しているが脳波は興奮状態を示し続ける者、快楽の状態を示したまま190ボルトまで通電した者。なかには嫌悪や恐怖から作品に近寄らない観客もいた。
参加者は一様に自らの脳波が描くグラフに驚き、この作品体験に息を呑む。私たちテラッコは参加者とともに、人間の感情の複雑さと残酷なまでの多様性を目の当たりにした。
maadmが最終的に何を感じたかは分からない。しかし、私はいま改めて彼の作品を振り返ることで、この難解な生物である“自分”と、同じく“自分”として生きる他者との関係について考えさせられている。(遠山尚江)

開催概要

日程:平成30年11月16日(金)、17日(土)、18日(日) 11:00~18:00
※スペースエルベは18:30 まで
会場: JR三鷹駅周辺
参加アーティスト:キュンチョメ、小林清乃、地主麻衣子、高田冬彦、Tuan Mami、林千歩、本間メイ、maadm

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