teratotera

「人と人、街と街とをアートでつなぐ」 中央線沿線地域で展開するアートプロジェクト

TERATOTERA 祭り2019 ~選択の不自由~ TALK

シンポジウム/トーク

「TERATOTERA祭り」では例年、参加作家によるトークショーを開催しています。2019年は、展示を準備している時期に、「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が脅迫的な批判によって休止を余儀なくされるという事件がありました。「TERATOTERA 祭り」が「選択の不自由」をコンセプトに掲げていたこともあって、トークショーでは選択とともに表現の不自由が主要な話題になりました。各作家の発言の要旨を紹介します。

 

/////以下、トーク内容の抜粋////////////////////

 

検閲が逆にオリジナリティーを生む?  小川希

「TERATOTERA祭り」は毎回、テーマを立てて展覧会を企画しています。今回は社会が自分たちの意識ではどうにもできないような状況になっているのではないかという不安がある。その状況に対して、アーティストたちはどういった答えを出してくれるか、をテーマとすることになりました。問題提起として、僕の友達である東南アジアのアーティストたちの状況について話します。東南アジアは検閲があって、そもそも表現の自由が前提ではない国がほとんどです。そういう作家たちが何もできないかというと、そんなことはなくて、検閲をくぐり抜けたり、逆手にとったりしています。直接的に対立するのではないアプローチをして、それがむしろオリジナリティーを生んでいることもたくさんあります。

儀式のルールと内容を転倒させる  岡田裕子

よく「やばい作品作るね」と言われるのですが、私自身は真っ向から状況と闘う作品は作っていません。「闘う」というキーワードが自分の中に入り過ぎると、白か黒か、右か左かとかいって、その時点で可能性を狭めてしまう気がするからです。美術のアプローチの面白いところは、自分がどこにいるかを自分で選択できるということです。
『ナニカヲイワウ』という作品を作りましたが、実は儀式的なものが好きではありません。決まり事のルールを外れると、重箱の隅をつつくような、せせこましい発言をする人が増えている状態も好きではない。そこで今回は、子供のころから植え付けられてきたルールを形だけなぞって、祝う対象を逆転させました。それだけで、参加者が楽しんでくれたという印象があります。

「こういう作家」という印象の不自由  遠藤薫

私はハノイに住んでいますが、たしかに東南アジアの中でも社会主義国は特に検閲が酷いです。そこで生活していると鬱屈として、大きな雑巾で汚い街路を掃除をしたことがあります。警察に「何してるんだ」と言われたら「掃除だけ」と答えて、その布を絵画として展示する。そんな作品がいくつかあるので、「TERATOTERA祭り」に誘われたときは、そういう作品を作らないといけないのかな、と思い込んでいました。「こういう作家」だと認められた瞬間に、そのような作品を作り続けないといけないと思ってしまうこと自体が生きてゆく上で「選択の不自由」だと感じました。メタ的に。今回もいつもどおりスタイルにこだわらず、このテーマでできることは何かということを最初に考えました。そこから、私は大阪のコリアタウンの近くの生まれ育ちで、仲のいい友人のほとんどが韓国人ということと、母が韓国を好きになれないことを踏まえて、催眠術と差別としつけについてグダグダと考えたり勉強した記録を展示しました。

他者の不自由を貯蓄して制作する  青木真莉子

選択をすること自体がそもそも自分にとっては自由ではないと思っていました。選択とは何かを捨てて何かを選ぶことだから、捨てたものにあった可能性とか面白いこととかを全部チャラにしちゃうことが自由じゃない。今回の参加依頼で不自由だと思ったのは、来場者に参加してもらう形の作品を求められたこと。そこで、自分が選択することは放棄して、来場者に、私がこれから作るものやキーワードなどを提示してもらえばいいと思ったんです。それに対して反応することは、私にとっては自由で面白いことではないかと思って。ところが、それが全然自由じゃなくて、むしろ選択をした来場者の方がすごく自由な感じで「楽しかったです」と言われました。私は他者の不自由を貯蓄して作品を延々と作り続けているような感覚、ランニングハイみたいな不思議な感覚でいます。

他概念としての言葉に具体物で姿を与える  前後

神村恵: 今回のパフォーマンスは、概念として理解して使っているはずの言葉に、具体物で姿かたちを与えてみることにトライしています。「権利」とか「社会」といった単語をいくつか書き出して、観客に選んでもらう。例えば「自由」という言葉には、ペットボトルと椅子と靴の中でどれが最も当てはまるかを考えるところからスタートします。そもそもその選択自体に意味がないというか、どれも「自由」と解釈できるし、全部違うということもできる。それでも選択することで何かが立ち上がってくる。観客も一緒に考える空気ができてくるのが面白い。同調圧力は「言わなくてもわかってるだろう」みたいなことを共有し合うことだけど、行為がうまく運んでいるときはわからないことについてみんなが手を伸ばしてくるみたいな感じがあると思いました。
高嶋晋一: 例えば「自由」という概念の内実は知らなくても、とりあえず「自由」という言葉を実際に使えていたら、私たちはそれぞれ、「自由」に対してある程度のことはイメージしているはずです。でも、それぞれがいつの間にか持っているイメージと、その「自由」という語はほんとうに対応しているのか。あるいは、それが同じ一つの言葉として共有されているとはどういうことなのか。といった疑問をターゲットにしています。プロセスをはしょると何のことやらさっぱりですが、その回の結論としては「中華鍋の中のタマネギが自由だ」ということになった。まあ、そんな感じです。

「イートイン脱税」への違和感から始まった  うらあやか

「選択」がテーマと聞いて、10月に始まった軽減税率のことを考えました。持ち帰りとイートインでは税率が異なるので、食べる場所の選択を権力者に奪われて、しかもコンビニなどでは店員と無駄にギスギスしてしまう、と怒りながら考えていた。それで最初は、持ち帰りとして買ったものをその場で食べて「イートイン脱税」しまくるパフォーマンスという作品を思いついたけど……。私は、作品を見に来た人と私が何かやっているところを、通りがかりの人が見たりするような、観客を巻き込む作品を作ることが多く、これまで協力的で穏やかな「いい観客」と作品を成立させてきた。けれど「あいちトリエンナーレ」のことがあって、「作品に対して攻撃的な人は観客なのか」と考えたり、あの騒動を俯瞰して批評している人の態度に呆れたりしているうちに、空転する言葉とフィジカルな攻撃の危険とが見えてきた。じゃあ「いい観客」「攻撃的な人」といった形容を外した人間と美術のことを、食べることと合わせてみようと思って、互いを見つめ合ってバナナを食べる作品になりました。

祖父の生涯に見る「どこで生きるか」の選択  鄭梨愛

私は「あいちトリエンナーレ2019」に仕事で関わっていたし、「表現の不自由展・その後」実行委員会を手伝っている友人もいたので、他人事ではなかった。いろいろな方から個人的に言葉を求められる場がいっぱいありましたが、なぜ私に言葉を求めるんだろうと思ったときに、あまり使いたくない言葉ではあるんですが、「私たち」ではない「他者」という関係性を強いられる感じがありました。それは私が在日コリアンだからこそだと思うんです。「他者」という視線に晒されたとき、自分の存在について考えることになる。好きでここに生まれて、生きているわけじゃないけれど、それは私や在日コリアンに限らず、負荷に多少違いはあれども、誰もが抱えていることだと思うのです。私の作品は自分の祖父のルーツから、どこで生きるかをどう選択してきたか、をたどったものです。自分が在日コリアンであるという事実は、作品の制作上ではどうしても切り離せず、強いアイテムになりますが、とても息苦しく感じるときもあります。

選択しても思いどおりになるとは限らない  うしお

私は、ミニマムな形で社会の縮図みたいなものをやってみたかったので、今回はゆるくお茶を飲むという形にしました。選択して自己決定をするということは、幸福を感じさせる仕組みの一つだと思っています。今回は参加者がお茶を選ぶのですが、誰かとミックスしなければいけないので、選択したのに自分が飲みたいお茶とは違う結末になる。一人だけで生きているならばともかく、社会の中にある限り、選んだとしても思いどおりにいくことなんてあるのかなって思って。最近は「不如意」、うまくいかないことを大きなテーマとしています。他者と関わって生きている限り選択がほんとうに自由になることは、ありえないんだろうと思って生きている。

窮屈な社会で表現を続けるためには  ヘンリー・タン
タイでは公に扱えないようなテーマ、トピックがたくさんあります。だから、政治問題や環境問題で最前線の活動家というのは主に大学生です。社会で責任を持つ大人たちは、最前線に立つことはできないから。自己検閲で議論自体をやめてしまうこともあるし、親と議論しようとすると一緒に食事をできないような関係になってしまうことも。だからセンシティブな話題を扱う時は直接的に言及するんじゃなくて、他のワーディング(言葉遣い)を選ぶことが、表現上の一つの手段になっている。漫画家であれば、軍事政権にとっては何が描いてあるのかわからないように、まったくテキストのない漫画を作るとか。ただ理解される場合もあって、その場合、政権側は監視を始めることになるから、追いかけたり、逃げたり、その繰り返しになっている。

「不自由」「危険」を越えて活路を開く
Movingscape連続展vol.1「乱立する筒」

野口竜平:自分は学生時代、軟式テニスのプレイヤーだったんですけども、中学校の先生に素振りの構えを教えてもらったことがあります。「これでうまく振れるわけないじゃん」って思っていたんですが、その「不自由」も慣れていけば強くなっていった。筋肉や関節の在り方をちゃんと探求すれば、普通に自分の技術が高まり、また知覚が増えていく。それはすごく面白く感じた。その知恵が今も活かされています。
たくみちゃん:今回のパフォーマンスは、観客を身体的にも視覚的にも限定された状況に追い込んでいた。野口君の発言は、その先に面白いものが見えてくるんじゃないかという話だったのですが、僕はもう一つ、「危険」という要素を重視にしていると感じています。「選択」と「危険」はすごく近い関係にある。危険な状況になったときに、それを乗り越えるのか、あるいは、そのときは不快な思いをしてもその後に何かを得るのか。そういったところに活路を見出していることに、結構共感できました。

開催概要

参加アーティスト:参加作家9組
日時:2019年11月9日(土)18:30~20:30
会場:武蔵野芸能劇場 小ホール

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