『ガンガン行ったるで』って思ってた時期だよね
- 國時
- 「三鷹の予備校には夏期講習の1ヶ月間だけ千葉の市川にある叔母の家から通っていたんですよ。 2浪目だったんですけど、多浪すると、絵を描くだけじゃダメって雰囲気があって、母親が洋裁をやっていたから教わって自分のシャツを作ったりしていたんですよ。 そしたら意外と皆から尊敬されて、ちょっといい気になっていたんです(笑)。予備校の先生って絵の指導をしながら、別の事もやっているじゃないですか? だから飛田さんが講師だけじゃなく、洋服を作っていた事も知っていました。もうスゲェ~、本物だって…」
- 飛田
- 「ホント?(笑)」
- 國時
- 「浪人している時ってモヤモヤしてるじゃないですか? そういう時に初めて見たファッションデザイナーだったんです。 三鷹駅で電車を待っていた飛田さんを見て、すごいインパクトだったんです。きっと、この人は荒くれ者なんだろうなと勝手に想像して、僕たちは飛田さんの事を『ケンカ番長』って言っていました(笑)。 真っ白いシャツにロン毛で、今よりデカかったじゃないですか? 『これからこの人はどこに行くんだろうな』って、何か憧れを持って見ていましたね。ファッションショーもやっていたし、常にずっと先を走っていて、自分が思い描く未来像みたいなものと勝手に重ねていました。」
- 飛田
- 「俺世代の美大生って、洋服作っているクセに『アパレルじゃねーんだ』みたいな特有の作家気質があってさ。今思うと良くないけど、あの頃はそれで良かったんだよね。結局、それで苦労するんだけどさ。作品なのか、商品なのか…。 そもそも作品を作っているつもりでいたんだけど、アパレル特有のビジネスみたいなものもあるし、それをわからないって言っているわけにもいかない。 どこかに就職していろいろなノウハウを学んでいたら、また別だったと思うんだけど、卒業していきなり自分でやるって言い出して、それこそ1人で縫い出してスタートしたからね。 それがあって今の作風があると思うんだけど、國時君が見てくれた時は『ガンガン行ったるで』って思っていた時期だよね」
小学校の時、母親に変な服を着せられ、洋服に興味を持ち始めた飛田さん。書いた詩が県の賞に選ばれたのも小学生の頃。 それは初めて海を見た時の素直な気持ちを綴ったもの。「あれが自分の中の表現の一番のオリジナルかもしれない」と飛田さんは当時を振り返っていました。 そして中学の時は野球をしながらヤンチャもしていた飛田さん。お兄さんの影響で聴いていたのはスターリンをはじめとする日本のパンクでした。 多摩美術大学時代には三鷹に住む仲間とバンドを組み、仲間と衝突しながら本気でプロを目指していたそうです。
- 國時
- 「バンドの仲間は今はどうしているんですか? 今も付き合いはあるんですか?」
- 飛田
- 「今でもたまに会ったりするけど、ベースの奴はかっこいいよ。まだ1人でも演奏していて、ライブハウスでたとえ客がゼロでも演奏しているって…。彼とは一番ケンカした仲。 お互いに真剣だったから殺すぞレベルのケンカだったね(笑)。周りから『2人を近づけない方がいい』って言われてたから(笑)。 彼は今でも音楽をやっていて、俺はファッションをやっていて、彼に言わせれば俺はチャラチャラしているのかもしれない。 でも、そんな真剣にぶつかり合える仲間はこの先もなかなか探せないだろうなって思っている」
そして大学卒業後、飛田さんはそれまでバンド繋がりのイベントやパフォーマンスの時に使っていたspoken words projectをファッションブランド名にして始動。 ファッションショーを行い、東京コレクションにも参加した飛田さんは世間から注目を集め、雑誌から多くの取材を受けていました。 次第にショーは700人も集まる大規模なものになっていきます。そんな時、飛田さんに現在の服作りの原点とも言える転機が訪れます。
- 飛田
- 「バイヤーから『オーダーがついたら作らなきゃまずい』って言われて、作風というか作品的な要素は排除したの。 そしたら人は来るのに全然売れないんだよね。その頃、俗にいう普通のアパレルの作り方をしていたというか、ちょっと自分でも自分の作風に疑問を持っていてね。 お金を結構使ってショーを何回も繰り返して、このままやっていたらまずいなと思い始めて、冷静に考えた時に『俺ってこういう服を作りたかったんだっけ?』と思ったんだよね。 じゃあ、全て1点モノにして最後のショーにしようと。『売ってくれ』って言われても『いや売らないよ、これは作品だから』ってスタンスで最後にやって、ショーは休もうと思っていたんだけど、そのショーをやったら急に商売になり始めたんだよね」
- 國時
- 「それはどの時のショーですか?」
- 飛田
- 「渋谷のSOHOを改装したギャラリーでやったショー。パターンはワンピースだけで、テキスタイルだけ徹底して自分で作った時だね」
- 國時
- 「それって会場はスペースエッジですよね。僕、見させてもらいました」
- 飛田
- 「ショーをやり始めて、30歳になるくらいかな。オーダーをもらっても作れないし、これでやり残す事はないやと思っていたら、そこから5年くらいお付き合いするエージェントの人が見に来ていて、『あなた、これを売りなさい』って声をかけてくれてね。 商売にならないと思っていたのにUNITED ARROWSやSHIPS、BAYCREW’Sからオーダーがジャンジャンきちゃって…。その頃はその辺のショップにウチの服を見てもらう術がわからなかったんだけど、そのエージェントはその辺に知り合いがいて、『ちょっと面白いのがいる』って話してくれてね。 そのエージェントのプレスルームに全部の洋服を置いておいたの。そしたら『ワンピースが30着注文ついたわよ』って連絡がきてね。『作れませんよ』って言っても『同じじゃなくていいから作りなさい』って…。 作品と思っていたモノを30着作る努力をする中で、何か俺の作風ってこういう事なのかなってわかったような気がするな。 エージェントが『この人、一点モノを手作りで作っているから。サンプルと同じものがお店に卸されても面白くないでしょ?』みたいな売り方をしてくれてね。 染めむらがあるワンピースもほとんど黄色に見えるワンピースも一部しか黄色じゃないワンピースも全部同じものと思ってもらって…。量産できないと思っていたモノを量産してみようと思った時に手作りの量産というニュアンスを覚えた。 1着しか作れないと思っていたモノを30着作る中で、すごく霧が晴れたというか、開けたんだよね」
- 國時
- 「当時そういう立ち位置のアパレルって他にあまりなかったんじゃないですか? そんな風に服を作っていたとは驚きです。」
お店に入って5分もしない内に生のジョッキを空にした飛田さん。それでもペースを抑えているんだとか。その後も飛田さんはお酒をガンガン飲み続け、國時も置いて行かれないように飲むペースが早くなります。 当然、トイレに行く回数も同じくらい増える2人。そして、お酒が入ってエンジンがかかった2人の会話は盛り上がっていき、國時は東京の西荻窪に構える自分の店STOREに飛田さんが遊びに来てくれて嬉しかった事を伝えます。
自分のやりやすいやり方を徹底して探さない限り、勝てないと思う
- 國時
- 「ウチのお店にいらして頂いた時、『あっ、僕の事を認識してもらった』って思いましたね。印象的だったんですけど、外に出て道路の反対側からウチの店を見ていたんですよ。意外とせわしなく動いて、いろいろ考えながら見てくれてるなと感じました。 飛田さんはずっと雲の上の存在で、来て頂いて嬉しかったですね。今、いろんな角度から検証されてると思って…(笑)」
- 飛田
- 「自分のショップを持つ事は非常にトライしてみたいものの、ちょっと構えちゃっている所があってね。洋服を売るという端的な部分で話をすれば、いい洋服を作ればいいのかもしれないけど、やっぱりトータルでショップの雰囲気やイメージを考えると、極端だけど床が何なのか、どんなドアの佇まいかだけでも好き嫌いは出るかもしれない。 それを微(び)に入り細(さい)に渡って考える人もいるし、ここでいいやって決めてバンバンやっている人もいるし、それはもういろいろなんだけど、最近すごく思うのは、トータルで行き渡っているかって事なんだよね。 洋服を作って売っていくとなると、洋服を作る事だけじゃない事がいっぱいあるじゃない?僕がすごく良いなと思ったのはアパレル然としてないというか、空間としてすごく気持ちが良かった。変に無理してないし、作っているニュアンスも残っている。 まぁ、ショップを見させてもらったのは、今のこの考えを持った状態で見させてもらったというよりは、西荻でアパレルってどうやるんだろうと思ってね。結構浮いていたよ(笑)」
- 國時
- 「確かに浮いていますね(笑)自分でも上手くいっているのかどうか..よくわからない(苦笑) 西荻はモノを売るにはすごく厳しい場所なんですけど、時々ウチの前をアパレルやデザイン関係の人がたまたま通りかかって店に入ってくれる事があるんです。 それって相手にとっては完全にカウンターパンチなんですよね。なんでこんな所にこんな店があるんだって…インパクト与えられるんですよ。モノは売れないんですけど、逆にそこから仕事になるってパターンも結構あります」
- 飛田
- 「あとは洋服。褒めるわけじゃないけど、あのコンセプトに辿り着くまでにはいろいろあったと思う。いい意味で無理してない感じはすごく伝わってくる。無理しているのが正直痛く見えちゃう時代でもあるから。 時代という言い方はよくないかな。続けていくってすごく重要で、無理したら続かないよね。自分でしかできない且つ無理しないやり方を探して、結局、消えていくブランドって山ほどあるじゃない? 俺も全然無理してないんだけど、無理しているって思う人もいるみたい。そういう意味ではすごくこなれたコンセプトだし、絞ってバリエーションが出るっていうのはすごくイイと思うんだよね。 なんか一生やっていくと思うと、無理していると続かないかなって…。そもそもアパレルが金になるからってやった訳じゃないからね。STOREさんもspoken words projectももう少しビジネスを考えた方がいいぜって所はあるけど(笑)、 spoken words projectは俺たちの表現の拠点だと思って始めたわけだしね。でもアパレルをやるには結構儲けないとまずい所もあって、急いで術を探して一点モノを30着作るという身を削るような事をやって初めてオリジナルが見えてきたんだよね」
4浪している飛田さんと3浪している國時。2人は共通点が本当に多くあります。飛田さんと同じように國時も現在のブランド名、STOREを学生時代の活動から使っていました。予備校の講師をしていたのも同じです。 そして、作っている洋服は違いますが、2人に一番共通しているのがファッションに対する真剣な気持ち。2人はこの先、どこに向かおうとしているのでしょうか…。
- 國時
- 「今、僕はやりやすいなって感じていて、情報がすごく流れているから、ハッタリをかますのが難しい時代だと思うんです。東京の青山とかで格好をつけてやってもすぐにバレてしまう。 でも、リアルに自分が西荻でやっている事を評価してもらっている。割と等身大でやれていて、そこを評価してもらえる時代だなって思います。 すごく聞きたかったんですけど、飛田さんは国内のファッションシーンというより、世界の中のspoken words projectという風に考えている気がします。これからspoken words projectをどうしていこうと考えていますか?」
- 飛田
- 「國時くんが言う通り、僕は世界を目指したいんですよ。44歳なので、50歳くらいまでにパリでデビューできれば、もしかしたら残り15年くらいは続けられるんじゃないかって…。 そう考えると、とにかくドメスティックにというか、自分のやりやすいやり方を徹底して探さない限り、勝てないと思うんだよね。今までの東京ブランドってパリやトレンドを意識して無理して3年くらいでなくなるわけ。 もっともっとマニアックに自分の生活領域で本当に良いものを作れれば、逆にその方があっちに持っていったら新鮮だと思うんだよね。ローカリズムというか、自分がやりたい事をやるって時代が来るような気がするんだよね。 もちろん、PRADAやLOUIS VUITTONなど、相変わらずヨーロッパの人たちのブランディングもずっとあると思う。残り20、30年って考えると、ローカリズムって言い方が良いかわからないけど、 今やっている事を一生懸命やっていかないとやっぱり闘えない。でも海外は絶対に考えていいと思うよ」
- 國時
- 「僕らはここ数年海外によく行くのですが、日本で作ったものを向こうで売るのはなかなかホントに難しいです。1月もアメリカに行ったんですけど、海外の行商は一つのキャンペーンと考えています」
- 飛田
- 「結構行ってるよね。あれってどういうコネクション?」
- 國時
- 「ほとんど旅行+@の気分で行っています(笑)。いつも長めに10日から2週間程度滞在するのですけど、必ずどこかのタイミングで服を見せる機会を作って地元の人にインパクトを与えるようにしています。 いきなり商売にはならないですけど、必ずなにか次に繋がるんですよね。だからライフワークとして普段がんばってお金を貯めて、なるべく海外に行くようにしています。ローカルである事が価値を持つ時代なので、 よりローカルなアプローチをした方が向こうの人って喜ぶんですよね。日本でこんな変わった事をやっている奴が来たって…。小さいかもしれないけど、がんばって世界に訴える。どんな人が来るかわからないし、そこは魅力だと思ってやっています。海外まで服を持って行って見てもらう事が、STOREにとってのファッションショーですね」
一見、大きくて強面の飛田さんはただものじゃない感じがして近寄りがたい雰囲気。でも話している時の表情はとても穏やか。 講師をやっていた事もあってか、とても伝わりやすい言葉、引き込むような話し方です。洋服の話をしている時はとても熱いものを感じました。そんな飛田さんがこの日一番の笑顔になったのが家族の話をしている時でした。
今まで持たなかった感情がすごく出てくる。
- 飛田
- 「40歳まではその日暮らしのひどい生活だったね。もう作品さえ作れればいいやみたいな荒れた生活をしていたけど、家族ができて子供が2人できて、今は超まろやかよ(笑)。 人生においてちょっとあれって思う出来事って親が死んだ時と子供ができた時。今まで持たなかった感情がすごく出てくる。 親が死んだ時も今まで親に対して持たなかった感情が出てきてね。4年前、親父は70歳で死んだんだけど、『孫を見なきゃ死なねーかんな』って言いながら2ヶ月で死んじゃってね。親父に孫の顔を見せたかったなぁ」
- 國時
- 「飛田さんはパンク出身だし、子供ができて変わる事はあるんですか?今までの考えがより強くなるのか、それとも全然違うフィールドに行っちゃう感じなんですか?」
- 飛田
- 「自分1人でよければ3ヶ月くらいの猶予を見ればいいと思って、その日暮らしの生活をしていたけど、子供を小中高、大学に入れたいと思うと、今まで持たなかったビジョンを持つようになるね。 ちゃんとしようとspoken words projectが第2ステージに進んだのも家庭ができたからかもしれない。spoken words projectも十何年続けていて、次はどこにいこうかって模索していた最中でもあったし、そんな中で子供ができたって順番かな」
- 國時
- 「奥さんはどんな方なんですか?」
- 飛田
- 「奥さんは女子美術大学のファッション出身で、知り合ってファッションの話をしている内にかわいいなと思ってね(笑)。時々誘って飲んでいる内に付き合うようになって、 俺は44歳で、奥さんは26歳。どっちかって言うと、浪人生くらいまでは年上が好きだったんだけど、付き合ってみると、そういうのってわからないよね(笑)。國時くんは奥さんと長いよね。学生時代から付き合ってるんでしょ?」
- 國時
- 「そうですね、長いですね。4年生の時に付き合いましたね」
- 飛田
- 「きれいな人だよね、國時くんにはもったいないよ」
- 國時
- 「もったいないですよ(笑)」
- 飛田
- 「なんか一緒にやれる事があったらいろいろ言ってよ」
- 國時
- 「はい、胸を借ります」
- 飛田
- 「こういう事ってなかなかないもん」
- 國時
- 「せっかく飛田さんに会って、いろんな事を話せると思ったんですけど、話せたのは10分の1くらいですね」
- 飛田
- 「そんなもんだよ(笑)」
浪人、大学時代を過ごした三鷹に飛田さんがやってきたのは十数年ぶり。様変わりした街の景色に驚いていました。でも当時の面影も残る街並みを見て昔を思い出したのか、たくさんの思い出話をしてくれました。 國時が「ケンカ番長」と予想した通り、若い頃の飛田さんはかなりヤンチャ。チーマーとの乱闘、ビル屋上での酒盛り、バンド仲間との大ゲンカなど、飛田さんが語る昔話はどれも男なら食いつくような内容ばかり。 でも詳細を語るには文字数が全然足りません。飛田さんの武勇伝はまた別の機会に!
TEXT:下田和孝
飛田正浩
1968年、埼玉県生まれ。多摩美術大学卒業。染織デザイン科在学中から様々な表現活動を<spoken words project>として行う。卒業を機に<spoken words project>をファッションブランドに改め、1998年東京コレクションに初参加。手作業を活かした染めやプリントを施した服作りに定評があり、現在、アーティストのライブ衣装や舞台美術、テキスタイルデザインなども手がけ、ファッションの領域を超えて活動中。
spoken words project 2013s/s collection「a petty goodbye in summer」
spoken words project
今回おじゃましたお店
婆娑羅 三鷹店 |居酒屋 |
武蔵野市 中町1-3-1 桜井ビル1F
0422-54-1666
営業日: 16:30~23:00 (LO 22:30) 【土】16:30~22:00 (LO 21:30)
Red Whisker | Bar |
武蔵野市中町1-21-1 扇子ビル 1F
0422-38-7483
営業日: 19:00~3:00 年中無休
http://www.goodspeed2000.com/